【過去】2002年2月 〜リングスが終わり、田村がシウバに負けた頃〜

U−443。それが僕のU−FILEの会員ナンバーだ。
1月12日。田村−シウバ戦が伝えられた週の土曜日に、
僕はU−FILEの会員になった。
 
「意味がわからない」
僕の入会の動機を聞いた友人はみなそう言った。
「田村が闘う事と、お前が格闘技習う事にどういう関係があるんだ」
もっともである。
「何かさー、じっとしていられないっていうか、自分も何かしなくちゃって思ってさぁ」
我ながら説得力に欠ける理由を言ってみたりもしたが、途中で話題を変えられてしまう事の方が多かった。
自分でも、よくわからなかった。
本当に気が付いたら、U−FILEの赤いマットの上で僕は佐々木恭介に両足タックルを習っていた。
 
田村本人と遭遇したのは、通い初めて3日目の立ち技クラスの時だった。
緊張して立つ僕の背を見て「でかいなー」と笑った。
僕は184のノッポである。大きく産んでくれた母親に初めて感謝した。
 
田村の指導は意外に飄々とした感じで、
「前蹴りをかわした後は、うーん、ミドルで返すのがいいかなぁ。じゃぁそれやってみよう!」
みたいな感じで、その場で考えながら教えていくのが面白かった。
 練習生のスパーでも技が転がっていくと「うまい、うまい」と嬉しそうな表情を見せる。
いつかのWOWOWの解説を思い出すような感じで、いい動きには素直に反応する田村。
関節のスパーの時には「取られてもいいんだから」と繰り返していた。
完全に極まった状態で、我慢しする人には必ず「入ったら無理しないでね」とたしなめる。
 
そして僕は、初めて食らう関節技に高田ばりの高速タップを繰り返した。
 
 
ボコボコにされながら、血まみれで笑った後楽園ホールのハスデルと、
最後まで強がりを貫いた前田日明の最後の挨拶と、
タオルをかぶったままコーナーで微動だにしない田村潔司
 
思えば2002年の2月は負けてばっかりの1ヶ月だった。
 
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あの試合から、そろそろ1ヶ月が経つ。
録画しておいた試合のビデオを、最近ようやく見る事が出来た。
試合を報じた雑誌も一通り読んだ。
田村に対して酷な記事が意外に少ない事に、少し驚いた。
ある意味順当な結果だったと言うことか。
あるいは、例え負けたとしても田村は全てを失いはしなかったということか。
正直な所、僕にはわからない。
菊田なんかが田村を評価する発言を見ると、嬉しくもなったし、悔しくもなった。
 
そして田村にとってはどうか。
田村はあの試合で何を得て、何を失ったのか。
 
「そりゃぁ落ち込みますよ。ああいうみっともない試合をして
 お客さんに哀しい思いをさせてしまったことが一番辛くて。
 期待してくれる人をガッカリさせるというのが一番辛いですね。 犯罪を犯してしまった気分です」
 
「重いですね。僕が13年間やってきた事が、またイチからっていう気持ちになったんで」
 
「負けに対して、どう自分を生かすかかということだから。
 今回の負けで、自分の中で言いたいことを噛み殺して悔しい思いをすればいいんであって、
 そこからどう立ち直るかということだと思うんで。
 極端な話、シウバに負けて、自分の生き方がこけるようであれば、
 それはもう自分に対して負けているわけであって」

 
 
週刊プロレスの鈴木記者によるインタビューは、本当に素晴らしかった。
少なくとも田村は全てを奪われはしなかったし、心を折られてもいなかった。
敗北の重みを受け止めて、それでも前に進もうとしている、その姿が自然体で伝わってきた。
10日間の謹慎を自分に課したという田村。その間に色々な事を考えたんだろうなと思う。
 
本当の事を言えば、田村は負けたら引退するんじゃないかと思っていた。
勝ったら勝ち逃げ、負けたら引退。そういう種類のバクチを打つつもりではないのかと、
僕は思っていた。
同じように、2月にリングスが終わり、田村が負ける事によって、
自分の中の何かが消えるのではないかと僕は怖れていた。
両方とも違っていた。
 
田村は敗れた。だけど敗北は無ではない、かもしれない。
少なくとも、田村は敗北を無にしない為に動き出しているように僕には思えた。
 
いつかの糸井さんの言葉を思い出す。
 
 大阪の不良少年だったころから、
 いままで、前田日明は、何度の敗戦を経験してきたのだろうか。
 おそらく、街の喧嘩から、優勝のかかった国際試合まで、
 すべての闘いに、彼は勝つつもりだったに違いない。
 しかし、負けは、確実にあった。
 その、多いとはいえない敗戦のいくつかを、私も目撃してはいる。
  (略)
 よく負けた敗者の存在は、よく勝った勝者の助産婦である。
 勝ち星の輝きは、敗者の敢闘によってしか生まれない。
 リングスを見続けている私たちは、このことを知ってしまった。
 前田日明の引退がカウントダウンされはじめた今だから、気になるのかもしれない。
 あらためて、思うのだ。
 格闘家・前田日明の栄光は、彼の獲得した勝ち星と、
 彼の運命に手渡された負け星の和だったのではないか、と。
 
 不吉なことを言っているのではない。
 引退のその日まで、前田日明は、どんなに重い敗戦を経験することができるだろうか。
 相手の格闘家に、どれほど偉大な負け星を送ることができるだろうか。
 今の私の興味はそこにある。
 勝つことに等しいほどの価値を持つ負けを獲得できているのなら、
 前田日明の格闘家としての生命は終わっていない。
 
そしてリングスである。
2月15日のリングス最終興行。
正直に言うと、なんだか僕は素直に楽しんだり、感動したりする事ができなかった。
その理由が田村の敗北から逆にクリアになってきた。
大会直前になって聞かれ始めた「リングスは終わらない」「第一次リングスが終了するだけだ」
という言葉。その言葉は僕をほっとさせると同時に、複雑な気分にさせた。
敗北を誤魔化しているような、そんな匂いが感じられたのだ。
 
選手でなくなった時、道場から前田の足が遠のき始めた時に、
前田日明の中に明確な敗北が無くなったのではないか。
そこから前田日明の迷走が始まったように僕には思える。
リングスは敗れた。
田村は敗れた。
敗北、そこから出発する事でしか何も産まれないのではないか。
 
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あの試合から3週間後の3月17日、U−FILE自主興行の翌日。
田村は普段通りに、立ち技初級クラスに顔を出した。
TKの初犯Tシャツを着た僕に
「なんでTKやねん」と軽い突っ込みを入れてきた。
突然の言葉に僕は「いえいえ、いやいや」と言葉にならない返事を返した。
天にも昇る気持ちのストーカーが一人。
そして、練習が始まった。